自己所有の認識

なんのために生きるのか、生きる理由が見当たらない、いつ死んでも構わない、食事も入浴も仕事も恋愛もすべてこなすだけという、そんな生きる屍のような、飼育されているペットのような人が近年増えてきているようです。増えてきているかどうかはわかりませんがそういう人たちは意外に多いなとは体感してます。そういう人とつるむと生きた心地がしません。
みなさんの周りにも少なくとも一人はいるのではないでしょうか。
今回はそういう人を通して考えたことを綴ります。

僕はその人たちを言いくるめたいと思って書いているわけではないし、ましてや言い負かしてやろうなんてことは微塵も考えてないです。ただ考えたことを書きます。もし、そう感じた人がいればブラウザをそっと閉じて忘れてください。この話をそういう人にすると言い負かそうとしていると糾弾されることが幾度かあったので注意書きしておきます。
糾弾されるのは避けたいです。

まず、自分は何者でもない、と謙虚になることが大前提となると思います。案外そういう人っていません。生きてきた中で2人しか思い当たりません。
みなさんも、謙虚な姿勢が大事であることは重々分かっていることだとは思いますが、心の余裕が無くなったり、嫌なことがたてつづけに起こると、そうは思えなくなり謙虚であることに腐心してしまいます。大抵の人たちはこの繰り返しだと思います。
忍耐が美学と考え、無理に我慢を続け、謙虚であろうとし続けると知らず知らずのうちに心が病みます。そしてなによりこれは謙虚とは言えません。謙虚であろうとしている時点で横柄な考えです。たちの悪いパターンです。

前置きはここまでにして、いきなり質問です。皆さんの中に正しいことと間違ったことの判断基準はありますか?そして、それは一体どんなことでしょうか?

この質問に対して、多くの人が他人に迷惑をかけているか否か、という答えに行き着きます。日本人の特徴といわれる、空気を読むというやつです。これは大事な処世術のひとつですが、これを判断基準にしてしまうことにいささか疑問に感じます。
売春を考えると明らかです。先述した判断基準によれば、お互いの利害が一致しており、誰にも迷惑をかけないから良いのではないか、という意見に肩を貸すことになり、売春は正しいということになります。売春の例を一つとっても、正しいことと間違ったことの区別を行うときに迷惑をかけるかどうかは見当はずれでお門違いであることは明白です。お金もらえるんだったら、いいんじゃねと言う人もいますけどね。そういう人に限ってポイ捨てや信号無視にうるさかったりします。いみわかんねえよ。

先ほどの質問に対して、自己所有権について考えて一つの答えを出したいと思います。これは、自分は自分のものであると主張する権利のことで、自己決定権とは異なります。
法的な所有権というのは、当人に100%権利が譲渡され、一度持ってしまえば法律の範囲内では何をしても良しとされています。例えばiPhone XRを買った直後に粉々に粉砕しても良い訳です。組織を持つことになれば、伝統があろうとも、どう運営してもいいのです。法的には。
自己所有権はこの法的な意味を持つ所有権とは異なります。自分は自分で100%受け持っていると考えると先ほどと同様に売春は正しいことになります。自分は自分だけのものだし、だれにも迷惑なんてかけてない、と。また、100%自分は自分で支えていると考えるとすると、両親や恋人が急に目玉をくりぬきだしてもそれをやめさせることも、とがめることも、敬遠することも許されません。なんせ100%その人はその人のものだから。
この自分はどのくらい自分のものであるか、その割合は年々高くなってきているそうです。これは謙虚さの対義語ともいえる傲慢さの出所になりかねません。たち悪いです。

これらから自己生存は100%自分で支えていると考えるには無理があると考え、残りのパーセンテージは他の誰かが担っていると考えざるを得ません。そして同時に人間は社会的な生き物であることが理解されるはずです。自由権の台頭によって、近代では自分のものは自分のものという変な自己所有権が広まってしまったが故にこの、人間は社会的な生き物であるという自覚が薄まってきていて、これは、生きる意味がない、という人たちが増えてきた一因であるとも思います。

話があっちこっち行きましたが、ここまでで誰にも迷惑をかけないことが正しいことと盲信してしまうことが危険なことでかつ破綻していることがわかったかと思います。もちろんだからと言って、常軌を逸した明らかな迷惑行為は言わずもがなです。誰にも迷惑をかけないことは正しいことの裏付けにはなり得ません。かけない方がいいよねぐらいです。
そしてなにより迷惑をかけるかどうか、かけたかどうかなんて誰にも分かりません。迷惑をかけないようにと思っても実際のところはわかりません。神のみぞ知るというやつです。ぼくは「私は迷惑をかけるようなことはしていない」と高をくくっている人には近づきたくありません。たちの悪いパターンの人です。

では、自分の自己所有権を主張できる残りの誰かさんはどんな人たちのことを指すのでしょうか。
僕が思いつく限りでは、その可能性を持つものは、家族、社会、地域、塾、バイト、部活、学校、友達、配偶者、恋人などが挙げられます。いわゆる共同体と呼ばれるものです。逆に、自己所有権を主張できない人、あるいは認めたくない人は自分とは関係のない人だと思います。ここで割り切ってしまってもいいのかという疑問はありますが、横柄なことに人間は自分が生きていくのに直接的に関わっていると実感できる人たちにしか自己所有権を認めようとはしません。先人たちの膨大な知恵の上に生かされているのにも関わらず。

"自分"というのは自分で自分になったわけではなく、先述したような何かしらの共同体に支えられ、"自分"は名前を含め、共同代の中で与えられた立場のことです。それだけです。ホントに"自分"は何者でもないのです。
しかし、このように自分を取り巻く環境やそれによる条件付けが行われていたとしても"自分"が決まってしまうということは決してないわけであくまでも深く影響されているというだけです。"自分"が決定されてしまうわけではありません。共同体からの自分への刺激に対する自分自身への影響は自分で選択する自由があります。この過程で自分が形成され、決定されていくのだと僕は思います。人生は自由だ、とかよく聞きますよね。

ここまでの話で、自分(生命)は過去(共同体からの支え)からの贈り物、与えられたものだということがわかります。しかし、自分には何らかの刺激に対して自分自身への影響を選択する自由がある。すると、必然にその生命の使い方には責任が伴ってきます。"自分"という存在が背負っている歴史的・文化的な背景に鑑みて、自らの所属する共同体の福利向上のために自らの生命を使うという責任が。

これが謙虚さの基になり、謙虚さは学びの原動力に、そして生きる活力・目的に通じてきます。ここで謙虚と卑下をはき違えてはいけません。自分を卑下すること、ましてや自らの生命に自ら終止符を打つことは、過去に関わった人たち、共同体への侮辱に値します。これをぼくは間違ったことだと思います。そして、この責任を全うすることこそが正しいことであり、そして、生きることだとぼくは思います。この、責任を全うする方法は人それぞれです。ですから、他人の行為をやすやすと正しい、正しくないと判断することは不可能ですし、意味のないことです。他人に迷惑をかけるか否かが正しい、正しくないであれば判断は簡単ですが。

約一年半前から、このことについて考えているのですがなかなか納得の行く考えにたどり着きません。途中経過として書きました。なにかご鞭撻いただけると幸甚です。ちなみにこの考えはコミュニタリズムに分類されるそうです。

書き終えたら、少し高級なソフトクリームを食べようと買ってきたのでそれを食べて寝ます。