幸福は退屈な日々に

世の中、実に退屈である。しかし、不幸では決してない。

 

私たちは日本に生まれてきた以上日本の国民として果たさなくてはいけない義務というものがある。義務とは往々にして退屈なものである。納税が社会のためであるとはいえ、だれが進んで行うか。役所へ出向くときはなんとなしに気が重い。小学校や中学校ほど退屈なところはなかった。制約・規制が多すぎるのである。人間一人で生きているわけではない以上、仕方がない。しかし、義務とは退屈なものである。仕事をすることも義務であり退屈である。衣食住にありつけるためにはお金が必要であり、お金を稼ぐためには仕事をしなくてはいけない。だから仕事をする。仕事は間接的な動機をもって行われている。仕事自体に情熱を燃やしているわけではなく、仕事をすることで得られる報酬に焦がれて仕事に精を出しているわけである。会話もそうである場合がある。会話を楽しむのではなく、会話することによって得られる幾分かの報酬を求めて、会話を行う場合である。この場合、自分の役に立たない話には耳を貸さないようになり、老人の話を聞くことは退屈ということになる。接待などが好例である。おもてなしが一時期流行したが、移民や難民は一切受け入れなかった。いかにもさもしい。仕事の報酬で言えば、収入の多さを自慢するためであったり、夜の街を楽しむためであるとか、職場にて承認欲求や権力を満たすためであるとか、さまざまな報酬を想像する。仕事一筋という人がたまにいるが、今述べた理由であるかそれとも他に楽しみのないいやみな人間のどちらかであるに違いない。サクセスストーリーは概して下品である。仕事なんて退屈なものである。帰宅時間の電車の雰囲気がそれを物語っている。もし仕事が退屈ではないとすれば、いやしブームなど到来していなかった。いやしいやしとはいかにも卑しい。これらの退屈は、アルコールの摂取により束の間ではあるものの、忘れ去ることができる。しかし、アルコールによって得られる興奮は翌朝の退屈さをよりいっそう強くする。残るものは頭痛だけである。幸福感は、ない。強い退屈はさらなる刺激を求める。はなの金曜日がわざわざ流行することになった。そうして、退屈はがむしゃらに興奮を追求することで避けられる、ということを覚える。仕事は楽しくあるべきだという風潮がある。だから、転職がもてはやされている。これもよほどの事情がない限り、退屈しのぎであるにすぎない気がする。もっと楽しい仕事があるべきだという幻想にすがりつくことをやめない。一度転職する者は二度三度と転職を続ける。自分に合った仕事を引き当てることができなかったあかつきには、社会が悪いなどと嘆く。人生思い通りにいくことはほとんどないわけで、こんなことを続けていると時間がいくらあっても足りない。こうして退屈を恐れ、必要以上に興奮を求めることはあまり得策とは言えない。SNSにもこうした構図が見受けられる。

 

SNSは思うに、ギャンブルである。どこへ行くにもスマートフォンを携帯し、食事の共となり、ついには一緒に布団に入る。通知を常に気にしている。好きな人からの連絡があれば心が躍る。このとき分泌されるドーパミンはたばこやアルコールによって分泌されるそれをはるかに凌駕する、という研究結果がある。これは他のSNSにてお目当てのコンテンツを見つけ出したときにも同様なことが言える。SNS上には膨大な情報があふれかっているが、ほとんどは自分の興味のないものである。あるコンテンツに興味がないと判断し、次のコンテンツに移行する一連の流れにかかる時間は、平均して10秒に満たないそうである。これはお目当てのコンテンツを掘り出し満足いくまで止まらない。さしずめ、あたりを出すまでレバーを引き続けている、といえる。このような時間の過ごし方は、退屈を恐れ、興奮を追求していないとすれば一体なんであろうか。

 

批判しているわけではない。退屈から逃れたいという衝動はごく自然であるし、興奮を求めることも全く自然である。退屈も興奮も決して悪ではない。問題は分量である。現状に鑑みて、都市の開発に伴い興奮を求める方向へ行き過ぎてはいないかというのが率直な意見である。それではどうも幸福は訪れない気がする。すなをかむような生活が延々と続くに過ぎない。退屈は悪である、という風潮が瀰漫しているように感じる。資本主義の「時は金なり」という原則が経済にはもちろん、各人のイデオロギーに深く浸透し、無意識的に時間対効果を瞬時に概算することになる。だから、電車が1分遅れただけでいらいらする。5分遅れれば激怒する人が現れる。こうした考えはビジネスの世界で完結させてほしかったものである。時間を無駄にすることを恐れると、身動きが取れなくなるか、はたまた興奮の追求が徐々に激しくなりその反動で退屈が苦痛となってくる。これではキリがないし、そもそも心身が持たない。そしてふと我にかえったときに残っているものは何一つない、となる。というのも、その間中考えが常に次の快楽に向かっていて、何かを達成することに注意が向かないのである。倦怠の犠牲者にとって必要なことは今日と昨日を区別してくれる事件であり、建設的な目的が芽生えることはまずない。だから芸能ニュースへのニーズが一定数ある。建設的な目的があれば、その道程で退屈が必要であることがわかっても臆することなく退屈に耐える。難関校へ合格する人たちはまさにこういうひとたちではないか。受験勉強なんて退屈なもの以外のなにものでもない。アインシュタインの生涯でも、ナポレオンの生涯についても退屈な時期は必ずある。彼らが退屈さに耐えきれず、興奮を追求することに腐心していたならば歴史は大きく異なったものであったに違いない。

 

これまで述べてきた興奮や快楽はおおむね自然のゆったりとした過程から不当に切り離されたものによってもたらされている。夜の街やアルコール、SNS、ギャンブル。すべて自然との関わりが一切ない。こうした興奮は簡単に得られるわけであるが、幸福感を一切もたらさない。幸福感とは基本的にお金はかからない。ぼんやりと陽を浴びたり、軽い運動をしたりして風を感じ、夜にぐっすりと眠るだけでも相当に幸福感を得られる。お金の虜になっている場合、時間対効果が見込めないと焦るようである。朝焼け、夕焼けはきれいである。秋空に輝く星々は実にきれいに見える。虫のさざめきに耳を傾けていると心地よい。これまでに述べてきた種類の興奮に比べて刺激の強さは弱いかもしれないが、深い幸福感は残る。これは愛と単なる性的魅力との違いにも通ずる。愛のない性交には幸福感がみじんもない。束の間の快楽が果てれば、疲れと嫌悪と、人生はむなしいという感じが残る。

幸福な生活には、おおむね静かな生活が必要である。静けさに勝る強さはない。静けさの中で初めて喜びは息づく。