学習

眠いので、文章がめちゃくちゃかもしれません。
直したくなったら修正していきます。
20日目の記事です。

人間は感覚を通じて世界を認知できます。逆に言い換えると、僕たちが世界を捉えるときには五感のみに頼っています。五感を通じて入力信号として脳へ伝わり、なんらかのルールに則り、出力へ変換されます。ここでいう出力とは運動そのもののことです。そして、その結果が感覚を通して返ってくることで、脳内のなんらかのルールに修正を行わないといけないことが段々と分かってきます。この循環の関係が重要であり、これが人間に備わる学習能力です。ここで言う学習能力によれば、感覚から運動への橋渡し役としての脳内におけるルールを育てていくことが学びである、と言うこともできます。最近流行っているディープラーニングがまさに学習の根本を具現化していますね。そちらのほうが想像しやすい方も少なくないかもしれません。入力(五感)が少なければ、精度の悪い出力(運動)であるが、入力の数や種類を増やすことで出力の精度が良くなっていきます。
ここまでの話は納得のいく話だと思います。当たり前だなんて思う方もいるかと思われます。
ここでぼくは、僕たちはこれらの五感と運動を相当におろそかにしていないか、と思うわけです。

学習について、五感と運動とそれらの結果が循環していくことが重要であると言いました。とすれば、五感と運動がおろそかになっているとなかなか学習できないことになります。これは人工物のあふれる都会において顕著であると僕は思います。例えば、オフィスビルの中では、一日中照明の具合に変化はありませんし、気温も調節され、風を一定です。五感、つまりは入力に変化がないわけです。入力に変化がなくて出力に変化が起こるとは僕には思えません。つまり学習できる場というもの自体が相当減っていると僕は思うわけです。

最近では人の死は、病院で迎えるものという通説が定着しつつあります。日常が繰り広げられる家の中から、死という不吉なものを排除することに成功し、非日常なものとなりました。亡くなったあとも、火葬場にて焼かれてしまいます。そして、火葬が執り行われるようになった頃に現れたのが水洗トイレです。こちらも排泄物を日常から遠ざけることに大成功しています。嫌なものや考えたくないことを見ないようにすることができてしまったのです。
また今では、夜中に歩くことや、車が危ないといった理由からどこへ行くにも車で送り迎えしてもらう子供が多くなりました。どこかへいくときにも、大して歩かなくてよくなりました。子供関連で言うと、中学校の体育会において、組み体操はあぶないからやめさせろ、というクレームがあるそうですね。

このように、様々な場面において、五感や運動を通じて、嫌なこともしんどいことも、実際に体で体感して、さらに五感をはたらかせるということが、環境的に減ってきています。学習する場をなくしているのは集合としての大人です。その上、生物の常として、自分に必要のないもの、使わないものと判断したものは上手に省略する癖があります。僕たちが赤ん坊のときには歩くことに全意識を集中させていた時期もあったはずですが、いまでは歩くことに対して意識を傾注させることはまずありませんよね。
こんな中で、まともに学習することができる人はかなり限られてくるのではないかと僕は思ってしまいます。

こういう考えを基に、時代錯誤かとは思われますが、なんでもかんでも効率化や合理化を求め、細かいプロセスをうまく省いて結果的にそれが見えないようにしてしまうのはいかなるものか、と思ってしまいます。もちろん、効率化や合理化の観点から見ると、いいことがあることは事実としてあると思います。しかし、それにしても効率化や合理化への度が過ぎているのではないかと思います。信仰しているように見えます。
個人的な営みの上で効率を求めるのは構いませんが、人間、個人で生きていくことはできません。それを踏まえた上で、効率を求めて、入力と出力をできるだけ直線でつなげていくことは学習しているとは言えません。それはマニュアル通りと呼ばれることになってしまい、外部のルールがなければ動かなくなります。つまりはコンピュータと同じなわけで、いつでも受け身です。アクティブラーニングなんてものが流行っていますが、そもそも学習するというのは能動的なものです。アクティブラーニングだなんて名を売って、能動的に学習するほうがいいよ、受け身ではなく能動的に学習することをおすすめするよ、という印象を与えているように思えて仕方がないのですが、こんな風潮が広まっていくとAIに支配されるだなんて騒いでいる間に僕たちがAIと同じ挙動をしていることになっているなんてオチもありえますよね。AIに支配される確率の高い職業ランキングなんて誰が興味あるのでしょうか。
また、効率化を意識的であれ、無意識的であれ求めているとなると、自分の読みたいもの、見たいもの、聞きたいもの、したいことのみに関わることになってきます。これは逆に自分とは関係のないものや異質なものを排除する傾向があることになります。グローバル化を逆行していくわけですね。これを体現したな、と思った瞬間があります。それは2016年に相模原にある知的障害者福祉施設で起きた大量殺人事件です。障害者なんていなくなってしまえ、と。衝撃的な事件だったので印象強く覚えています。記憶に残っている人も多いのではないでしょうか。

自分の興味のあるものにのみ関わるとなると、学校で問題を解けと言われても、読みたくない、解きたくないという風になっても不思議はありません。特に最近ではこういう生徒は増えてきているそうです。そんな風にして生活を無理やり成り立たせようとしていると、いずれどこかでしわ寄せがきてしまうのではないかと思います。自分を含め、人が生き抜く上で何よりも必要である学習能力を活かせるような環境、つまり学習できる環境というのを大人と呼ばれる立場に立った以上は考えていかないといけないと思っています。ゲームが良くない、スマホが良くないだなんて親の方々が言いますけど、大人たちが作った世界な上に、大人たちがいつも使っているわけですから、なんの説得力もありません。そして、そういう教育をしてきたのも親です。お気の毒様です。だからといって、大人のせいにするだけで、その上にあぐらをかいているわけにもいきません。

いけないことばかりが増えて社会としての寛容さを失い、その帰結として五感や運動がおろそかになっています。これは生物としては異常なことだと思います。その認識はあったほうがいいのかもしれません。そして、このような社会を誰も喜んで作ったわけではないと思います。悪いのは誰だという話でもありません。子供に対して最近の子は...と言っている場合でもありません。まずは僕たちが学習しなければいけないのだと僕は思います。それは勉強を通じての学習のみではありません。そこが難しいところです。なにが正解かが誰にもわからないのです。ですから、学習に効率という概念は存在しないと僕は思っているわけです。先が見えないのに、どうすることが効率的と言えるのでしょうか。