専門家

一介の大学生が暇を持て余して書いた記事です。これは本記事で一番重要なことです。

 

世は移り変わる。それをヘラクレイトスは万物は流転すると表現し、仏教では諸行無常と説く。未来が現在と変わりない状況であるという保証はどこにもない。この紛れもない事実、あるいは法則としても良いが、については危機を通して良く学ぶことができる。だから、危機は必要悪であると言いたい。以上を踏まえ本記事でとりあげたいことは、専門家の是非である。

まず、幼児教育やエリート教育について述べる。現在の価値観と未来の価値観は必ずしも一致しないことは説明した。このことから幼児教育やエリート教育の有用性は保証がないことは明らかである。しかし、幼児教育やエリート教育が有用な場合もある。それは一定のパターンのある、ないしはパターンが有限な分野である。水泳や将棋が典型例である。定められたパターンをいかにうまくできるか、ということが問題となるのであるから、はやくに始めていれば大変有利であろう。幼児教育やエリート教育についてはこれくらいにしておく。

次に、ある特定の分野に特化することについて述べる。つまり専門家について考える。特定の分野に特化するということは、裏を返せば、その分野に縛られるということである。特化するということはそういうことである。このためか、専門家会議はあまり役に立たなかった。合理性を追求しすぎなのだと思う。基本的にヒトは合理的には動かない。ヒトには情動が備わっているからである。専門家会議に限らず、ある専門家が一貫として情動を排し合理主義の世界に棲んでいる場合に、これを世間では専門バカと呼ぶ。幼児教育やエリート教育を受けた者はこの状態になる危険性が高い。すなわち、ヒトの情動に対する理解が薄い。官僚などが良い例である。また、天才の言うことはいまいちわからない。ただ、専門バカと言われようが、一応は頭が良い。ただのバカではない。しかし、そんなにみんなで専門分野に進んで、その結果は一体だれがまとめるのか、というようなことはあまり考えない。そんな暇があったら業績を上げる方が良い。また、自分の専門外についてはさっぱりわからない。事実、僕は生物学や哲学、言語学などで何を扱っているのか、よくは知らない。そんなヒトが世の中にあふれたらどうなるだろうと考えると、どことなくバベルの塔が彷彿としてくる。学問とはいまのところ、学者同士の内輪ネタみたいに見える。学問とはいかなるものであるべきか、ということを根本に立ち返って考えるべきであろうが、いかんせんその議論をするには僕の能力が追いついていない。あるいは追いつけないかもしれない。

ただひとつ言えることとしては、勉強ばかりしていると、世間様からの評価は上がるかもしれないが、バカになる可能性も十分にあるということである。知識を詰め込んで知的遊戯に没頭していてはいけない。必要なことは、他分野にも一応触れておき、知識の受け皿を大きくしておくことだと思う。すなわち知識に一定の幅を持たせることが重要であり、これを知恵あるいは教養と呼ぶ。目指すべき状態は、情動と合理性の均衡のとれた状態であり、いいかえればこれはヒトへの理解と教養との均衡のとれた状態であり、結局は、ヒトの気持ちがどのくらいわかるか、というはなしであろう。これは文学の存在意義でもあり、遊ぶこともそれなりに意義があるということである。

幅を持つ、ということはどうしても剰余を含む。現代において、意味のないものあるいは無駄なものとして排外され得るものである。すなわち、この剰余を最低限に抑えこむことを合理化ないしは効率化と呼んでいるのであろう。しかし、生物学的にみるとどうも様子が異なる。剰余は自由度を生み、自由度は多様化へとつながって現在に至っていると解釈される。つまり、多様化は不要不急の積み重ねということである。これはヒトの顔なんかが代表例で、生物進化の過程において剰余は軽視できない。剰余がなければ分化の余地がないのである。今回のコロナ危機において、パチンコ店が不要不急だとして槍玉にあげられていたが、気の毒であったと思う。飲食店と何が変わらないのか。こうした排外主義はあまり好まないところである。

 

ひとまず、専門的になることばかりに腐心するのもまずい、ということを結論とする。そうしたらどう生きていけばいいのか、となる。幸か不幸か、これに関しては既成の解答がない。しかし、命題に掲げておくぐらいはできる。とりあえず、自分の生き方に関して、わかりきっているところでは本記事が特大ブーメランとならないように生きるべきであろう。