物憂げな気分、閉塞感
知識の請け売りですが、最近自分の思っていることとリンクさせてまとめてみました。
思想? ウソだ。主義? ウソだ。理想? ウソだ。秩序? ウソだ。誠実?真理?純粋?みなウソだ。
太宰治『斜陽』
おかしな世の中
家族旅行でディズニーランドへ行く。USJでもよい。アトラクションに乗って家族一同満面の笑み。一方、食卓を囲って家族団欒の時間かと思いきや、スマホ片手にあるいはテレビに見入りながら、つまらなさそうに親の作った料理を口に運ぶ。
そんなに日常が嫌いか。非日常な世界へ行き、アトラクションに揺すってもらわないと家族みんなで笑顔にはなれないのか。
スーパーや八百屋には一年中新鮮な野菜や果物が見事に並べられている。しかし、その光景を見ても新鮮な気持ちにはなれない。そもそも野菜なんて誰にも見られていないのではないか。見ているのはだいたいいつもスマホか。
買い物へいけないお年寄りがクリックひとつでのぞみの商品を手に入れられる便利さは覚えたが、孫の顔はめっきり見なくなった。
Google Earthの台頭によって、地球の裏側の路地裏さえも見ることができるようになった。しかし、誰も隣にいる人の心を見ようとしない。
一体全体何に向かっているんだ。
世界を意味で満たす人、あるいは満たされている人
すべてのものには意味がある、なんて詰まらない思考をする人が実に多い。「勉強する意味」や「生きている意味」を問うのが典型例であろうか。科学大国の宿命か。都会の生活に慣れきっている人はそうである傾向が強いように思う。都会には意味のないものは置かない。都会にある全ては人為的すなわち意識的に設計される。都会というのは構造的に無意味なものを含まない。
この都会に慣れてしまうとどうなるか。
無意味なものが許せなくなってくる。すべてのものには意味がなければいけない、という暗黙のルールが形成される。さらに、ニーチェの言葉を借りれば、「畜群道徳」が働くためそのルールは確固たるものになっていく(ニーチェは善悪の判断基準が「他の人と同じように振る舞うこと」である集団を蓄群と名付けました)。
自分の感覚に入ってくる情報のうち、意味に直結する情報だけを取り出し、世界を意味で満たす。そもそも都会では感覚に訴えてくることが最小限に抑えられている。制限がかけられた上に自分にとって意味のあるものと判断したものだけが当人に意識される。全ては自分の思い通りであると倒錯することもあり得る。だから、都会はみんなにとって楽しい場所であるのであろう。世界が意味で満たされている社会。それを都市社会という。そこには花鳥風月も雪月花もない。それをヒトは自然がないと表現する。
ひとたび、自然に足を踏み込めば、世界は意味で満ちている、という誤解をすることは決してない。あるものはあるわけで、そこに意味もクソもない。無意味なものがあってもそれはそれで良いではないのか。無意味なものとして一蹴してしまうのではなく、そこに意味を見出す努力を少しはしたほうがいいのではないか。
一体全体何に向かっているんだ。
何が自由だ
技術の進歩によって、様々な分野でくまなく利便性が追求された。娯楽施設もたくさんできた。それらを駆使することで我々は、もっと自由になれるという幻想を持つことに大成功した。しかし、考えてみると実際のところでは構造主義的な意味で、かなり制限されている。構造主義という名前を聞いたことがない人がいるかと思われるが、その思想は我々の中に伏流している、と識者は言う。おそらく意識化されていないだけである。構造主義の話は今回はまあどうでもいい。そういうものがあるらしい。
全てのものには意味がなければならない、という前提から脱却して、もう少し感覚入力(哲学では感覚所与と言う)に身を任せるという風な風通しの良さが世の中全体にあっても良いのではないか。それこそ開放性のある自由ではないか。ぼくには世間の言う自由さ、というものが理解できない。それの何がどう自由なんでしょう。人生のどこにその自由があると言うのですか。それとエゴとの差異はあるのですか。
結局のところ、みなウソでしょう?