桜と不倫

寒さもだんだんと和らいできて、やわらかな陽射しが心地よい暖かさを運んでくる季節になってきた。桜の花びらはここぞとばかりに満開になっている。今年の桜は綺麗とは思えなかった。景色は感情によって表情を変えるということを身をもって体験した。

僕の妻が不倫をしていることが発覚したのだ。おそらく間違いない。
その日、ぼくは会社をはやあがりすることができて、帰り道に大阪に寄り道したときに偶然見かけてしまったのだ。妻と妻の会社の同僚とがうきうきしながら手を繋いでいるところを。以前から妻が出社するとき、その会社の同僚がわざわざぼくの家まで迎えに来ていたこともあって、まさかとは思っていたけれどそのまさかであった。仕事を理由にたまに家に帰ってこないことの合点がいった。

もやもやとした気分でとりあえず数日を過ごした。その他なかった。時間は嫌でも過ぎていく。言及することも考えたが、そこそこ安定したいまの生活や、いままでの妻との思い出がすべて消えてしまうのではないかと思うと、妻にそのことは言えないでいる。その後のことを考えると、暗い気持ちになり、そのときに不安に押し潰される自分が容易に想像できる。不思議なことにこの状況に自分が慣れることを望んでいる自分もいた。不倫をした妻を責めるのではなく、不倫をさせてしまった自分を責めてしまうこともした。
僕にはなにがあるのだろう。なにがあったのだろう。4年前結婚したときに妻は僕の中になにを見いだしていたのだろう。考えたってわからないし、いまさら知りたくもない。それとも、惰性だったのだろうか。今回は特殊な例だが、妻といるとときどきこういうことを強く考えていた。考えすぎが体に毒であればぼくはとっくに昏睡状態に陥っている。
結婚当初は妻が他の男性と楽しくしゃべっているのを想像するだけで、嫉妬で心を痛めていた。でもいまは、嫉妬の欠片もない。気持ちが薄まったわけではない。むしろ共に過ごすなかで気持ちは高まっていくばかりだった。しかし今回ばかりは諦観が勝ってしまったのだ。彼女の虜になってしまってる状態から解放され、自由の身になりたいという願望すら芽生えていた。
ぼくには妻を想うことしかできない。とりたててなにかできるというわけでも、顔が整っているわけでも、甘い言葉をかけられるわけでも、なんでもない。
愛情表現が下手で、それを伝える手段も持ち合わせていない。困ったやつだなと自分でも思う。もはや涙も出ない。
好きってなんなんだ?厄介すぎやしないか?

妻の不倫が発覚したその翌週末にたまたま二人の休暇が重なったので、久々に二人で出掛けようということになった。ぼくは戸惑ったが、断るためのうまい理由が思い付かなかったので、一緒に出かけることにした。妻の不倫をぼくが知っていると思われたくなかったのだ。近くの川沿いの桜がこの辺りでは有名だったので、その日は春爛漫の快晴であったこともあり、そこに花見をしに行こうということになった。二人で川沿いに小さなレジャーシートを敷いて花見をした。狭いレジャーシートに二人でちょこんと座った。辺りでは大学生が騒いでいたり、この日のために生きているのだと言わんばかりに集まっている老人たちがいた。ぼくたちは妻が作ってくれたサンドウィッチを食べ、行きしなに買ったビールを飲みながら、仕事の話や下らない話をして何気ない会話を繰り広げていた。はじめのうちはどう接したらいいかわからなかったけれど、4年間をだてに過ごしてはいなかった。妻は妻のままなのだということに気付く。恐ろしいぐらいに。結婚当初あるいは不倫が発覚する前の自分を思い出す。不倫はしていないのではないか?人違いだったのではないか?と思う。平和だった。綺麗だと思った。桜だけでなく自分の取り巻くすべてが美しく見えた。なにものにも代え難いものに感じた。不倫をしていようが、妻を失いたくないと思った。やっぱり景色は感情によって、驚くほどに表情を変化させる。景色に自分が映っているのか。

それからの日々、毎朝不倫相手様が妻をお出迎えにあがり、それをぼくは社交辞令としての笑みを浮かべて妻を見送り、そのあと自分が仕事場に向かうというような、妻にとってはいつもと変わらぬ日常を過ごした。心は痛いが、気が狂うことはなかった。やはりどこかにあきらめを感じていたんだろうとおもう。しかし、希望は捨てていなかった。正確には、捨てられなかった。捨てられたらどれだけ楽だっただろうか。好きって絶望なんじゃないか?
妻には結局言えないままである。弱い自分が言わせてくれないのだ。
妻からの告白も、いまのところない。

桜が散り始め、青々とした葉っぱをつけた木々が目立ち始め、初夏の匂いがわずかながら鼻を通る。心地よい。桜は儚く散っていったけれど、また一年後のこの季節には満開となり、たくましく咲く。
こんなぼくでも、1年後もしくは数年後に、桜のように儚くとも力強く咲けるために、何かしてみるぐらいのことはできるんじゃないか。それはするかしないかのどちらかではないのか。弱い自分は無意識のうちにしない方ばかりを選択していたのではないか。不倫をしている妻をとがめるのではなく、自分が悔いのないように頑張ってみればいいのではないか。桜を通してこんなことを思う日が来るとは夢にも見ていなかった。
この4年間幸せに身を任せ、頑張ることの意味が見いだせなかった。頑張らなくても幸せだったのだから。今では頑張らなかったことに後悔している。
妻のことが好きじゃなかったらこんな風に思えていないだろうと思う。もしかするとぼくは愛しているのかも知れない。それはもうどっちでもよかった。どちらにせよ、どちらでもないにせよ、ぼくにとってはこれが素敵なことであることには代わりなかった。
好きって、あるいは愛するって、ただ生きていてほしいと願うことなんじゃないか?
ふとそう考える。そう思えたら素敵じゃないか。好きの本当の正体なんてどうでもよくなっていた。解釈には自由があるんだ。好きという言葉に支配されていたことが馬鹿馬鹿しく感じるようになっていた。きちんと言うのなら支配されていたのではないと思う。言葉に寄りかかれば思考停止できる。それに甘んじて、自ら支配されることを無自覚のままに容認していた。容認していることにすら気がついていなかった。これも解釈の自由か。

これからは自分ができることを精一杯してみよう。そう決意した。ぼくがぼくであるためにも。