やさしさ1 - 表面的なやさしさ

前回の記事で、傷つけない、傷つけられないというやさしさが社会通念となりつつあることを感じていると書いた。つもり。閉塞感すらも感じると。

このようなやさしさをやさしくないと揶揄したいわけではない。
やさしさと一口にいっても、様々な状況や事情、どの視点、どの立場かによって変容していくために、やさしさとはこうだ!こうあるべきだ!という主張は不毛であると思っているのでそういう話はしない。
やさしさを考える切り口として、先日聞いた友人の別れ話を題材に思うことを書き下す。
前回の記事でいうところの保身的で利己的で表面的な「やさしさ」について。

待ち合わせをしていた駅で、僕は音楽をBGMとしてぼーっと聞いていた。そして予定の時刻になろうとしたときに人混みのなかから友人は突如現れた。ぼくがイヤホンを外すや否や、恋人と別れたと唐突にぼくに告げ、「こっちは色々考えてたのに、相手なんてなにも考えてないしなにもしてくれなかった!」と言った。あまりの唐突さに、ぼくはきょとんとする他なかった。そんな風にして久しぶりの再開を確かめ合うこともなく落ち合ったそのあと、喫茶店へと足を運んだ。そこで話を聞かされたわけだが、特になにがあったわけでもなくありきたりな別れ話を聞かされるだけでほとんど聞き流していた。聞き流していることを咎められることなく、おひらきとなり、ぼくとしては一件落着だった。話の詳細はひとつとして覚えていない。ただ、ひとつ思ったことがある。
そこで見切りをつけられるほど、恋人と真剣に向き合ったのかと。
自分の身を取り繕うための配慮に気が向いて、思慮が足りていなかったのではないかと。

友人のような、「あなたのためにしてるんだから」「私は私なりに気を遣ってのことなのに」と不機嫌になり、苦言を呈する人は一定数見受けられる。そういう人の多寡は知らないし、問うつもりもない。
そんなことを言われた方からしてみれば、気付かないお前が悪いと後ろ指を指された気分になり、ばつが悪くなる。
そんな見返りを求める、戦略的なやさしさは相手のためを思っているのではなく、あくまでも自分のためという独善性を含んでいる。こういうことは、例として挙げた友人の話にあるように、男女関係においてとりわけ強く感じる。
こちらがこうしてあげたいなと純粋な気持ちで行動を起こしたとしても、そういう人たちにとってやさしさは戦略的なものだという思考がこびりついているため、純粋さに目もくれず、こちらの行為はそれは戦略的な行為と解釈される。であるから、この戦略的なやさしさを持ち合わせている人はなにをしても満たされない、残念な人に僕の目には映る。友人もその一人となった。
そして、追い討ちをしてくるかのように「あなたは私のことを全然考えてくれてない」「私のことばかにしてるでしょ」「私のことなんだと思ってるの」といった具合にしきりに責めてくる。さらには、やけのやんぱちになったのか、ふてぶてしい態度を取る人もいる。被害者意識が強いというか、自意識過剰というか。戦略的なやさしさを匂わせたり、求めたりするくせに、戦略的なやさしさを嗅ぎ付けると不服そうにする。

なにがしたいんだ。

と友人に対して言いたいが、鈍感すぎという声が帰ってきそうだ。ぼくは傷つけまいとそれを口にしなかったので、やさしい人である。