やさしさ 1

やさしさについて書いてみてほしいという声があったので、考えてみた。

きょうび、「やさしさ」が大人気である。

「彼氏さん、やさしそうでいいね」
「私のためになんでもしてくれて、やさしい!」
「あの先生は単位をくれるから、やさしい先生だ」

など、日常的で何気ない会話のなかでやさしさはしばしば取り上げられ、いまや「やさしさ」は絶対的な価値を持っていると言える。
そして、不快な思いをさせられたり、傷つけられたと思うと即座に
"この人はやさしくない、注意せよ"
とまるでプラグラムされたかのような、過剰な反応を示し、短絡的な思考が起動する。このプログラムによれば、人を傷つけることを避ける人を「やさしい」人とみなす。
相手の気持ちに立ち入ることはタブーで、相手の気持ちを詮索しないことが、滑らかな関係を保つのに欠かせないものとなっている。

傷つけないように、なんとか嫌われないように、そんな保身的で利己的で表面的な「やさしさ」を身にまとい、「やさしい」人を演じようと、したり顔で「やさしい」人になろうと日々精進している人もいるんじゃないかと思うほどだ。
不本意にも相手を傷つけてしまえばその時点で即刻プログラムが作動し、関係を打ち切られ、以前の関係を修復することは不可能となる。傷つけたことを反省し、自覚した頃には時すでに遅し。自他共にそれ以前の関係に回復したことはありません。見たこともありません。プログラムによってただ機械的に排除されてしまう。友人や恋人、そして家族でさえも。ちっともやさしくない。

傷つけたらお終まいという一触即発の状態であることが前提にあり、「やさしさ」を求めるうらには厳しいルールが存在しているようで、お互いの心の傷を舐め合う「やさしさ」よりも、お互いを傷つけない「やさしさ」の方が、滑らかな人間関係を維持するにはよい、ということらしい。

しかしぼくは傷つけないやさしさを持つ人をやさしいとだけ形容するには少し抵抗がある。控え目なだけの人かもしれないし、弱いだけなのかもしれない。そして、ただの人畜無害な人という可能性もある。それを「やさしい」とだけ表現し、思考停止する前に、その人の「やさしさ」の出所を懐疑的な目で見ることも時には必要であると思う。

そして、ぼくはこの「やさしさ」に対して重苦しい閉塞感を感じている。