相談とは???

ブログと言えば日記という名の愚痴が大半を占めますよね。人口に膾炙することは滅多に無さそうですが。
そんなわけで今日はこの愚痴に対する愚痴を綴ろうと思います。

いきなりの質問ですが、相談ってみなさんどういうときにしますか?

カフェや喫茶店に行って聞こえてくる会話から相談している様子がうかがえ、どんな悩みを抱えているのだろうと興味本位で聞いていると結局愚痴の言い合いじゃんって思うことがほとんどです。実際に相談にのることがたまにありますが、それは相談なのか?と思います。

確かに愚痴や不満を言うのは楽しいと思います。内輪ネタや地元ばなしで盛り上がる感覚に似ていると思います。あれは楽しいのではなく、楽なだけだと思いますが、そんな話にはなんの生産性もないですし、はっきりいって時間の無駄です。
相談を装い、自分が100%被害者かのように不満や愚痴をもらし、同情や共感を覚えて悦に入る。強くなった気分になり、晴れ晴れとした気分にもなります。
実際問題何も解決されていないのにも関わらず。
相談相手が実際の相手でもないのにも関わらず。

飲み会に限った話ではありませんが、とりわけ飲み会の席で、そういう人が居るとたまったものではありません。ただの生き地獄です。正直オナニーをみているのと同じ気分です。
ただただ自分の不満をぶちまけられる人のことを相談相手と呼ぶ人もいれば、自分がしんどくなっているから話を聞いてくれるだけの人のことを相談相手と呼ぶ人もいます。自分が話をして相づちを打ってくれるだけで、この人はわかってくれる!とほざきながら。
たったの20年、しかもこれは幼少期なども含みますから、ほんと数年の間でそういう話を聞くとそんな印象を受けます。

そういう人のある人への悪い評価を出所として、愚痴が生まれています。悪い評価に限らず
「君はいつも遅刻ぎみだね」
「押しの強い人だね」
「あなたが勝つなんてありえない」
「頭のいい人だね」
など、無限にある評価の中で人はよく他人のことを評価しますが、ほとんどの場合は、相手がどういう人間なのか俯瞰的に、客観的に述べているわけではなく自分の関心事や人格的な弱さを通して相手を見ていて、自分自身を相手に投影しているだけだと思います。人は自分の考えていることしか考えられないし、知っていることしか知りません。そして、悲しいことにその先を知ろうと思う人も少ないです。意識は所詮意識であり、意識は意識の外には出られません。
この意味では、世界に対する見方や自己愛の度合いが人との接し方に直結してくるのかな、と思います。
夫婦喧嘩の場面で、夫が奥さんに対して不倫の疑いをかけると奥さんは言いますよね。「あなたがそうしている、もしくはそうしてきたからそういう考えしかないんでしょ」と。多分そうなんだと思います。自分がそうしているから、奥さんの何気ない行動に敏感になります。奥さんがほんとに不倫をしていないと仮定した場合になりますが。
愚痴をいう人ほど、愚痴を言われているんじゃないかと心配になり、また、人のことを内心ばかにしている人ほど、何気ない一言に「ばかにされた」と異常な反応を示すのもそれだと思います。究極的な例としてニートを考えるとわかりやすいと思います。
ですから、自分の考えを顧みずに愚痴を相談と呼ぶにはあまりにも軽率で邪な考えかと思います。正直辟易します。

相談は自分の頭で考えて、試行錯誤しながら、実際に行動してみて、紆余曲折を経験し、ついには思い付く打開策が底をつき、右往左往しながらの話じゃないの?と聞きながらに内心思うことが多いです。万策尽きて事態の展開を待て、と。その過程の中で、自分で考えてきたことの答え合わせ的なスタンスでお話しするのは、その人の考え方に触れることができたり、生産性があって面白いなあと思いますが、そうでない限り、自分で考えることを放棄しているようにしか見えません。そうでなければなにかと理由をつけて、解決する気がさらさらないのだと思います。

本当に解決を望んでいるが、自分の手に負えないときには、友達と呼べるかも曖昧な関係の存在に痴話を投げかけるというぬるま湯に浸かってないで、目標に合った、その道に精通している人に話を聞くべきです。同じ環境にいる同じ世代の人たちではやはり限界があります。
学問を志す者であれば、教授や本にすがり、人間関係に悩めるときには先輩や人生経験豊富な目上の方に、仕事でうまくいかないときには上司や同業者に、いくらでもあるはずなのに、楽だからという理由でついついぬるい湯に浸かっているように見えます。

愚痴をいうのは大いに結構ですし、否定する気もさらさらありませんが、それを無意識の内に相談と詐称し、話を肥大化させることで自分の不安や本当の相手や事柄から逃げてないで、できることやれよ!っていう愚痴でした。