結晶作用

スマートフォンの通知音が鳴る。ぼくはそれで目を覚ましスマートフォンに手を伸ばす。目を擦りながら電源をつけると、「神戸に帰ってきているから、久しぶりに会わないか。」と表示されていた。「わかった」とだけ返信し、軽い朝食をすませ、家を出た。待ち合わせの店に着くとそいつは立っていた。店に入り、席につき、2杯のコーヒーを頼み、近況報告やら他愛のない話をして過ごしていた。そして、最後にこんな話をされた。恋愛の話だ。

「恋が発生する前にな、まず感嘆するんだ。容姿でも声でも、仕草でもなんでもいい。とにかくその人のどこかに感嘆する。そして、この子とあんなことができたらどれほどいいだろうなどと自問する。妄想と言ってもいい。希望が生まれて直ちに恋が生まれる。自分が愛し、愛してくれる人にできるだけ近くに寄って、見たり触れたりあらゆる感覚をもって、感じることに快楽を感じるようになる。まあ、ここまでは流れに任せろ。ここからが肝心なんだ。」
ぼくは黙って聞いている。
「恋が生まれると次に、第一の結晶作用が生まれる。結晶作用ってのはわかるか?」彼は純粋な目で聞いてきた。ぼくには結晶作用がなんなのか全くわからなかったが、黙っているわけにもいかなかったので、「お互いの愛が結晶化して確実なものになる」と答えた。
「甘い。全然違う。」彼は強く断言した。これだけ強く否定されるとばつが悪くなる。
「結晶作用はザルツブルクにある塩坑の話が基になっている。」
ぼくは何の話だ、と聞こうとしたが、やっぱり黙って聞くことにした。
ザルツブルクの塩坑では、冬になると葉を落とした木の枝を廃坑の奥深くに投げ込むんだ。2,3カ月経ってそれを取り出して見ると、それは輝かしい結晶で覆われている。山雀の足ほどもない細い枝ですらまばゆく揺れてきらめく無数のダイヤモンドで飾られている。もとの小枝はもう認めない。」
彼は得意げに、ゆったりと話した。
「あばたもえくぼということか」
「それも結晶作用のひとつだ。経験あるだろ?そのときは、千の美点を見いだす。この期間がいつまでも続くことを切に願う。幸福なことだ。しかしだ、人はすべて単調なものに、完全な幸福にさえ慣れて、いずれ飽きるんだ。そこで疑惑が生まれる。慣れってのは怖いぜ。
これはおれの憶測に過ぎないが、女ってのは疑惑を持ち始めると一時の情熱的な陶酔から冷め、羞恥心に負けたのか、道に背いたことを心配しているのか、あるいは媚態によってなのか、皮肉的なことを言ったり、そっぽを向いたりする。厳しくなるんだ。いつでもこれは男を混乱させる。恐ろしい不幸に陥るのではないかという懸念が男を苦しめる。」
苦い思い出があるのか、彼は感傷に浸るように話している。男と女を型にはめて考えることに危険性を感じなくもないが、首を突っ込まずに適当に相づちをうちながら聞いている。
「疑惑の発生で恐ろしい夜が続いている中、第二の結晶作用が始まるんだ。やっぱり、彼女はおれを愛している、と。彼女がおれに与える快楽は、彼女のほか誰もあたえてくれない、と。ここでも恋は盲目だ。第二の結晶作用が起こればちょっとやそっとのことでは関係は崩れない。恋をするとな、こういう葛藤というか苦悩ってのは必ず起こるんだ。意思とは関係なく生まれ、消える。お前に恋人ができて、これを実感できなかったら、おれはお前の恋人を娼婦だと言おう。」
偉そうに語る彼に不快感を抱いたが、理解できない話ではなかったし、多少の説得力もあった。

「あとな、ひとつだけ言っておく。」
まだ、続くのかと反射的に思った。
若い女にばかにされたところで、躍起になるなよ。行いの正しい男ってのはよくそんな目に合うんだ。」彼は言い放った。
「そんなの無理な正当化じゃないか」とぼくは反論する。
「そう考えると、気に病まなくてすむだろ。真実とか事実ってのはあまり価値のないもんだぜ。いちいちかまってたらきりがない。」
彼は言い終わったあと、残っていたコーヒーを飲み干し、バイトに行ってくると言って店を出た。

一人残されたぼくはスマートフォンで結晶作用と調べた。するとひとつの書物がヒットした。スタンダールの恋愛論だ。なんだよあいつ、えらそうにと思った反面、熱心にそれをぼくに伝えようとしていた彼の姿を思い出した。