幸福は退屈な日々に

世の中、実に退屈である。しかし、不幸では決してない。

 

私たちは日本に生まれてきた以上日本の国民として果たさなくてはいけない義務というものがある。義務とは往々にして退屈なものである。納税が社会のためであるとはいえ、だれが進んで行うか。役所へ出向くときはなんとなしに気が重い。小学校や中学校ほど退屈なところはなかった。制約・規制が多すぎるのである。人間一人で生きているわけではない以上、仕方がない。しかし、義務とは退屈なものである。仕事をすることも義務であり退屈である。衣食住にありつけるためにはお金が必要であり、お金を稼ぐためには仕事をしなくてはいけない。だから仕事をする。仕事は間接的な動機をもって行われている。仕事自体に情熱を燃やしているわけではなく、仕事をすることで得られる報酬に焦がれて仕事に精を出しているわけである。会話もそうである場合がある。会話を楽しむのではなく、会話することによって得られる幾分かの報酬を求めて、会話を行う場合である。この場合、自分の役に立たない話には耳を貸さないようになり、老人の話を聞くことは退屈ということになる。接待などが好例である。おもてなしが一時期流行したが、移民や難民は一切受け入れなかった。いかにもさもしい。仕事の報酬で言えば、収入の多さを自慢するためであったり、夜の街を楽しむためであるとか、職場にて承認欲求や権力を満たすためであるとか、さまざまな報酬を想像する。仕事一筋という人がたまにいるが、今述べた理由であるかそれとも他に楽しみのないいやみな人間のどちらかであるに違いない。サクセスストーリーは概して下品である。仕事なんて退屈なものである。帰宅時間の電車の雰囲気がそれを物語っている。もし仕事が退屈ではないとすれば、いやしブームなど到来していなかった。いやしいやしとはいかにも卑しい。これらの退屈は、アルコールの摂取により束の間ではあるものの、忘れ去ることができる。しかし、アルコールによって得られる興奮は翌朝の退屈さをよりいっそう強くする。残るものは頭痛だけである。幸福感は、ない。強い退屈はさらなる刺激を求める。はなの金曜日がわざわざ流行することになった。そうして、退屈はがむしゃらに興奮を追求することで避けられる、ということを覚える。仕事は楽しくあるべきだという風潮がある。だから、転職がもてはやされている。これもよほどの事情がない限り、退屈しのぎであるにすぎない気がする。もっと楽しい仕事があるべきだという幻想にすがりつくことをやめない。一度転職する者は二度三度と転職を続ける。自分に合った仕事を引き当てることができなかったあかつきには、社会が悪いなどと嘆く。人生思い通りにいくことはほとんどないわけで、こんなことを続けていると時間がいくらあっても足りない。こうして退屈を恐れ、必要以上に興奮を求めることはあまり得策とは言えない。SNSにもこうした構図が見受けられる。

 

SNSは思うに、ギャンブルである。どこへ行くにもスマートフォンを携帯し、食事の共となり、ついには一緒に布団に入る。通知を常に気にしている。好きな人からの連絡があれば心が躍る。このとき分泌されるドーパミンはたばこやアルコールによって分泌されるそれをはるかに凌駕する、という研究結果がある。これは他のSNSにてお目当てのコンテンツを見つけ出したときにも同様なことが言える。SNS上には膨大な情報があふれかっているが、ほとんどは自分の興味のないものである。あるコンテンツに興味がないと判断し、次のコンテンツに移行する一連の流れにかかる時間は、平均して10秒に満たないそうである。これはお目当てのコンテンツを掘り出し満足いくまで止まらない。さしずめ、あたりを出すまでレバーを引き続けている、といえる。このような時間の過ごし方は、退屈を恐れ、興奮を追求していないとすれば一体なんであろうか。

 

批判しているわけではない。退屈から逃れたいという衝動はごく自然であるし、興奮を求めることも全く自然である。退屈も興奮も決して悪ではない。問題は分量である。現状に鑑みて、都市の開発に伴い興奮を求める方向へ行き過ぎてはいないかというのが率直な意見である。それではどうも幸福は訪れない気がする。すなをかむような生活が延々と続くに過ぎない。退屈は悪である、という風潮が瀰漫しているように感じる。資本主義の「時は金なり」という原則が経済にはもちろん、各人のイデオロギーに深く浸透し、無意識的に時間対効果を瞬時に概算することになる。だから、電車が1分遅れただけでいらいらする。5分遅れれば激怒する人が現れる。こうした考えはビジネスの世界で完結させてほしかったものである。時間を無駄にすることを恐れると、身動きが取れなくなるか、はたまた興奮の追求が徐々に激しくなりその反動で退屈が苦痛となってくる。これではキリがないし、そもそも心身が持たない。そしてふと我にかえったときに残っているものは何一つない、となる。というのも、その間中考えが常に次の快楽に向かっていて、何かを達成することに注意が向かないのである。倦怠の犠牲者にとって必要なことは今日と昨日を区別してくれる事件であり、建設的な目的が芽生えることはまずない。だから芸能ニュースへのニーズが一定数ある。建設的な目的があれば、その道程で退屈が必要であることがわかっても臆することなく退屈に耐える。難関校へ合格する人たちはまさにこういうひとたちではないか。受験勉強なんて退屈なもの以外のなにものでもない。アインシュタインの生涯でも、ナポレオンの生涯についても退屈な時期は必ずある。彼らが退屈さに耐えきれず、興奮を追求することに腐心していたならば歴史は大きく異なったものであったに違いない。

 

これまで述べてきた興奮や快楽はおおむね自然のゆったりとした過程から不当に切り離されたものによってもたらされている。夜の街やアルコール、SNS、ギャンブル。すべて自然との関わりが一切ない。こうした興奮は簡単に得られるわけであるが、幸福感を一切もたらさない。幸福感とは基本的にお金はかからない。ぼんやりと陽を浴びたり、軽い運動をしたりして風を感じ、夜にぐっすりと眠るだけでも相当に幸福感を得られる。お金の虜になっている場合、時間対効果が見込めないと焦るようである。朝焼け、夕焼けはきれいである。秋空に輝く星々は実にきれいに見える。虫のさざめきに耳を傾けていると心地よい。これまでに述べてきた種類の興奮に比べて刺激の強さは弱いかもしれないが、深い幸福感は残る。これは愛と単なる性的魅力との違いにも通ずる。愛のない性交には幸福感がみじんもない。束の間の快楽が果てれば、疲れと嫌悪と、人生はむなしいという感じが残る。

幸福な生活には、おおむね静かな生活が必要である。静けさに勝る強さはない。静けさの中で初めて喜びは息づく。

専門家

一介の大学生が暇を持て余して書いた記事です。これは本記事で一番重要なことです。

 

世は移り変わる。それをヘラクレイトスは万物は流転すると表現し、仏教では諸行無常と説く。未来が現在と変わりない状況であるという保証はどこにもない。この紛れもない事実、あるいは法則としても良いが、については危機を通して良く学ぶことができる。だから、危機は必要悪であると言いたい。以上を踏まえ本記事でとりあげたいことは、専門家の是非である。

まず、幼児教育やエリート教育について述べる。現在の価値観と未来の価値観は必ずしも一致しないことは説明した。このことから幼児教育やエリート教育の有用性は保証がないことは明らかである。しかし、幼児教育やエリート教育が有用な場合もある。それは一定のパターンのある、ないしはパターンが有限な分野である。水泳や将棋が典型例である。定められたパターンをいかにうまくできるか、ということが問題となるのであるから、はやくに始めていれば大変有利であろう。幼児教育やエリート教育についてはこれくらいにしておく。

次に、ある特定の分野に特化することについて述べる。つまり専門家について考える。特定の分野に特化するということは、裏を返せば、その分野に縛られるということである。特化するということはそういうことである。このためか、専門家会議はあまり役に立たなかった。合理性を追求しすぎなのだと思う。基本的にヒトは合理的には動かない。ヒトには情動が備わっているからである。専門家会議に限らず、ある専門家が一貫として情動を排し合理主義の世界に棲んでいる場合に、これを世間では専門バカと呼ぶ。幼児教育やエリート教育を受けた者はこの状態になる危険性が高い。すなわち、ヒトの情動に対する理解が薄い。官僚などが良い例である。また、天才の言うことはいまいちわからない。ただ、専門バカと言われようが、一応は頭が良い。ただのバカではない。しかし、そんなにみんなで専門分野に進んで、その結果は一体だれがまとめるのか、というようなことはあまり考えない。そんな暇があったら業績を上げる方が良い。また、自分の専門外についてはさっぱりわからない。事実、僕は生物学や哲学、言語学などで何を扱っているのか、よくは知らない。そんなヒトが世の中にあふれたらどうなるだろうと考えると、どことなくバベルの塔が彷彿としてくる。学問とはいまのところ、学者同士の内輪ネタみたいに見える。学問とはいかなるものであるべきか、ということを根本に立ち返って考えるべきであろうが、いかんせんその議論をするには僕の能力が追いついていない。あるいは追いつけないかもしれない。

ただひとつ言えることとしては、勉強ばかりしていると、世間様からの評価は上がるかもしれないが、バカになる可能性も十分にあるということである。知識を詰め込んで知的遊戯に没頭していてはいけない。必要なことは、他分野にも一応触れておき、知識の受け皿を大きくしておくことだと思う。すなわち知識に一定の幅を持たせることが重要であり、これを知恵あるいは教養と呼ぶ。目指すべき状態は、情動と合理性の均衡のとれた状態であり、いいかえればこれはヒトへの理解と教養との均衡のとれた状態であり、結局は、ヒトの気持ちがどのくらいわかるか、というはなしであろう。これは文学の存在意義でもあり、遊ぶこともそれなりに意義があるということである。

幅を持つ、ということはどうしても剰余を含む。現代において、意味のないものあるいは無駄なものとして排外され得るものである。すなわち、この剰余を最低限に抑えこむことを合理化ないしは効率化と呼んでいるのであろう。しかし、生物学的にみるとどうも様子が異なる。剰余は自由度を生み、自由度は多様化へとつながって現在に至っていると解釈される。つまり、多様化は不要不急の積み重ねということである。これはヒトの顔なんかが代表例で、生物進化の過程において剰余は軽視できない。剰余がなければ分化の余地がないのである。今回のコロナ危機において、パチンコ店が不要不急だとして槍玉にあげられていたが、気の毒であったと思う。飲食店と何が変わらないのか。こうした排外主義はあまり好まないところである。

 

ひとまず、専門的になることばかりに腐心するのもまずい、ということを結論とする。そうしたらどう生きていけばいいのか、となる。幸か不幸か、これに関しては既成の解答がない。しかし、命題に掲げておくぐらいはできる。とりあえず、自分の生き方に関して、わかりきっているところでは本記事が特大ブーメランとならないように生きるべきであろう。

物憂げな気分、閉塞感

知識の請け売りですが、最近自分の思っていることとリンクさせてまとめてみました。

 

思想? ウソだ。主義? ウソだ。理想? ウソだ。秩序? ウソだ。誠実?真理?純粋?みなウソだ。

太宰治『斜陽』

 
おかしな世の中

家族旅行でディズニーランドへ行く。USJでもよい。アトラクションに乗って家族一同満面の笑み。一方、食卓を囲って家族団欒の時間かと思いきや、スマホ片手にあるいはテレビに見入りながら、つまらなさそうに親の作った料理を口に運ぶ。

そんなに日常が嫌いか。非日常な世界へ行き、アトラクションに揺すってもらわないと家族みんなで笑顔にはなれないのか。

スーパーや八百屋には一年中新鮮な野菜や果物が見事に並べられている。しかし、その光景を見ても新鮮な気持ちにはなれない。そもそも野菜なんて誰にも見られていないのではないか。見ているのはだいたいいつもスマホか。

 

買い物へいけないお年寄りがクリックひとつでのぞみの商品を手に入れられる便利さは覚えたが、孫の顔はめっきり見なくなった。

 

Google Earthの台頭によって、地球の裏側の路地裏さえも見ることができるようになった。しかし、誰も隣にいる人の心を見ようとしない。

 

一体全体何に向かっているんだ。

 

世界を意味で満たす人、あるいは満たされている人

すべてのものには意味がある、なんて詰まらない思考をする人が実に多い。「勉強する意味」や「生きている意味」を問うのが典型例であろうか。科学大国の宿命か。都会の生活に慣れきっている人はそうである傾向が強いように思う。都会には意味のないものは置かない。都会にある全ては人為的すなわち意識的に設計される。都会というのは構造的に無意味なものを含まない。

この都会に慣れてしまうとどうなるか。

無意味なものが許せなくなってくる。すべてのものには意味がなければいけない、という暗黙のルールが形成される。さらに、ニーチェの言葉を借りれば、「畜群道徳」が働くためそのルールは確固たるものになっていく(ニーチェは善悪の判断基準が「他の人と同じように振る舞うこと」である集団を蓄群と名付けました)。

自分の感覚に入ってくる情報のうち、意味に直結する情報だけを取り出し、世界を意味で満たす。そもそも都会では感覚に訴えてくることが最小限に抑えられている。制限がかけられた上に自分にとって意味のあるものと判断したものだけが当人に意識される。全ては自分の思い通りであると倒錯することもあり得る。だから、都会はみんなにとって楽しい場所であるのであろう。世界が意味で満たされている社会。それを都市社会という。そこには花鳥風月も雪月花もない。それをヒトは自然がないと表現する。

ひとたび、自然に足を踏み込めば、世界は意味で満ちている、という誤解をすることは決してない。あるものはあるわけで、そこに意味もクソもない。無意味なものがあってもそれはそれで良いではないのか。無意味なものとして一蹴してしまうのではなく、そこに意味を見出す努力を少しはしたほうがいいのではないか。

 

一体全体何に向かっているんだ。

 

何が自由だ

技術の進歩によって、様々な分野でくまなく利便性が追求された。娯楽施設もたくさんできた。それらを駆使することで我々は、もっと自由になれるという幻想を持つことに大成功した。しかし、考えてみると実際のところでは構造主義的な意味で、かなり制限されている。構造主義という名前を聞いたことがない人がいるかと思われるが、その思想は我々の中に伏流している、と識者は言う。おそらく意識化されていないだけである。構造主義の話は今回はまあどうでもいい。そういうものがあるらしい。

全てのものには意味がなければならない、という前提から脱却して、もう少し感覚入力(哲学では感覚所与と言う)に身を任せるという風な風通しの良さが世の中全体にあっても良いのではないか。それこそ開放性のある自由ではないか。ぼくには世間の言う自由さ、というものが理解できない。それの何がどう自由なんでしょう。人生のどこにその自由があると言うのですか。それとエゴとの差異はあるのですか。

 

結局のところ、みなウソでしょう?

声がする

かじかんだ手に冬の到来を感じる。
幼い頃は無邪気にサンタクロースを待っていた。
そんな無邪気さは遠い空のようで、今となっては夢や希望が吸い殻と同じように灰皿でくすぶっている。
年を重ねるにつれ、自分に嘘をついてごまかすことがだんだんとうまくなっていく。
流行や時流にしがみついて、飾り立てた言葉を吐いては自らを笑う。
世間や社会がどれだけ醜くとも、本音で生きていたいと思っていた。
しかし、それとは裏腹に、耳をふさいでいる僕がいる。今では自分の本音すら聞き取れない。仮面をつけた姿が様になっていく。

ここにいるのは誰だ。
そこにいるのは誰だ。
この声は誰だ。
その声は誰なんだ。

年の瀬で活気づく街。
今日も一人立ちすくむ僕。
もういっそのこと笑い飛ばしてほしい。
それだけですべてが解決する。

一生懸命に生きる勇気はいつのまにかなくなった。そこに悲しさがないことに気づき、また自嘲してしまう。
今日も僕は、小さな微笑みをなんとか捻出しながら、なぜか生きている。

学習

眠いので、文章がめちゃくちゃかもしれません。
直したくなったら修正していきます。
20日目の記事です。

人間は感覚を通じて世界を認知できます。逆に言い換えると、僕たちが世界を捉えるときには五感のみに頼っています。五感を通じて入力信号として脳へ伝わり、なんらかのルールに則り、出力へ変換されます。ここでいう出力とは運動そのもののことです。そして、その結果が感覚を通して返ってくることで、脳内のなんらかのルールに修正を行わないといけないことが段々と分かってきます。この循環の関係が重要であり、これが人間に備わる学習能力です。ここで言う学習能力によれば、感覚から運動への橋渡し役としての脳内におけるルールを育てていくことが学びである、と言うこともできます。最近流行っているディープラーニングがまさに学習の根本を具現化していますね。そちらのほうが想像しやすい方も少なくないかもしれません。入力(五感)が少なければ、精度の悪い出力(運動)であるが、入力の数や種類を増やすことで出力の精度が良くなっていきます。
ここまでの話は納得のいく話だと思います。当たり前だなんて思う方もいるかと思われます。
ここでぼくは、僕たちはこれらの五感と運動を相当におろそかにしていないか、と思うわけです。

学習について、五感と運動とそれらの結果が循環していくことが重要であると言いました。とすれば、五感と運動がおろそかになっているとなかなか学習できないことになります。これは人工物のあふれる都会において顕著であると僕は思います。例えば、オフィスビルの中では、一日中照明の具合に変化はありませんし、気温も調節され、風を一定です。五感、つまりは入力に変化がないわけです。入力に変化がなくて出力に変化が起こるとは僕には思えません。つまり学習できる場というもの自体が相当減っていると僕は思うわけです。

最近では人の死は、病院で迎えるものという通説が定着しつつあります。日常が繰り広げられる家の中から、死という不吉なものを排除することに成功し、非日常なものとなりました。亡くなったあとも、火葬場にて焼かれてしまいます。そして、火葬が執り行われるようになった頃に現れたのが水洗トイレです。こちらも排泄物を日常から遠ざけることに大成功しています。嫌なものや考えたくないことを見ないようにすることができてしまったのです。
また今では、夜中に歩くことや、車が危ないといった理由からどこへ行くにも車で送り迎えしてもらう子供が多くなりました。どこかへいくときにも、大して歩かなくてよくなりました。子供関連で言うと、中学校の体育会において、組み体操はあぶないからやめさせろ、というクレームがあるそうですね。

このように、様々な場面において、五感や運動を通じて、嫌なこともしんどいことも、実際に体で体感して、さらに五感をはたらかせるということが、環境的に減ってきています。学習する場をなくしているのは集合としての大人です。その上、生物の常として、自分に必要のないもの、使わないものと判断したものは上手に省略する癖があります。僕たちが赤ん坊のときには歩くことに全意識を集中させていた時期もあったはずですが、いまでは歩くことに対して意識を傾注させることはまずありませんよね。
こんな中で、まともに学習することができる人はかなり限られてくるのではないかと僕は思ってしまいます。

こういう考えを基に、時代錯誤かとは思われますが、なんでもかんでも効率化や合理化を求め、細かいプロセスをうまく省いて結果的にそれが見えないようにしてしまうのはいかなるものか、と思ってしまいます。もちろん、効率化や合理化の観点から見ると、いいことがあることは事実としてあると思います。しかし、それにしても効率化や合理化への度が過ぎているのではないかと思います。信仰しているように見えます。
個人的な営みの上で効率を求めるのは構いませんが、人間、個人で生きていくことはできません。それを踏まえた上で、効率を求めて、入力と出力をできるだけ直線でつなげていくことは学習しているとは言えません。それはマニュアル通りと呼ばれることになってしまい、外部のルールがなければ動かなくなります。つまりはコンピュータと同じなわけで、いつでも受け身です。アクティブラーニングなんてものが流行っていますが、そもそも学習するというのは能動的なものです。アクティブラーニングだなんて名を売って、能動的に学習するほうがいいよ、受け身ではなく能動的に学習することをおすすめするよ、という印象を与えているように思えて仕方がないのですが、こんな風潮が広まっていくとAIに支配されるだなんて騒いでいる間に僕たちがAIと同じ挙動をしていることになっているなんてオチもありえますよね。AIに支配される確率の高い職業ランキングなんて誰が興味あるのでしょうか。
また、効率化を意識的であれ、無意識的であれ求めているとなると、自分の読みたいもの、見たいもの、聞きたいもの、したいことのみに関わることになってきます。これは逆に自分とは関係のないものや異質なものを排除する傾向があることになります。グローバル化を逆行していくわけですね。これを体現したな、と思った瞬間があります。それは2016年に相模原にある知的障害者福祉施設で起きた大量殺人事件です。障害者なんていなくなってしまえ、と。衝撃的な事件だったので印象強く覚えています。記憶に残っている人も多いのではないでしょうか。

自分の興味のあるものにのみ関わるとなると、学校で問題を解けと言われても、読みたくない、解きたくないという風になっても不思議はありません。特に最近ではこういう生徒は増えてきているそうです。そんな風にして生活を無理やり成り立たせようとしていると、いずれどこかでしわ寄せがきてしまうのではないかと思います。自分を含め、人が生き抜く上で何よりも必要である学習能力を活かせるような環境、つまり学習できる環境というのを大人と呼ばれる立場に立った以上は考えていかないといけないと思っています。ゲームが良くない、スマホが良くないだなんて親の方々が言いますけど、大人たちが作った世界な上に、大人たちがいつも使っているわけですから、なんの説得力もありません。そして、そういう教育をしてきたのも親です。お気の毒様です。だからといって、大人のせいにするだけで、その上にあぐらをかいているわけにもいきません。

いけないことばかりが増えて社会としての寛容さを失い、その帰結として五感や運動がおろそかになっています。これは生物としては異常なことだと思います。その認識はあったほうがいいのかもしれません。そして、このような社会を誰も喜んで作ったわけではないと思います。悪いのは誰だという話でもありません。子供に対して最近の子は...と言っている場合でもありません。まずは僕たちが学習しなければいけないのだと僕は思います。それは勉強を通じての学習のみではありません。そこが難しいところです。なにが正解かが誰にもわからないのです。ですから、学習に効率という概念は存在しないと僕は思っているわけです。先が見えないのに、どうすることが効率的と言えるのでしょうか。

読書1

僕たち一般人が頭を悩ませる事なんてたかが知れている。それは当の本人も自覚しているつもりだと思われる。しかし、それは自分だけがこんな思いをしているといういわば妄信であり、一種の自傷行為であり、そしてある意味横柄極まりない行為であるということは念頭にあるのだろうか。僕自身の経験を顧みたことからも、それらはまったくの悲劇のヒロイン気取りにしか見えない。ぼくの視野が狭いだろうか。

日常的に僕たちが抱える悩み事は多くの先人たちによって既に悩まれた事で、既に克服されてきたものである。そして、大変親切な事にそれらが書き記された書物が数多く存在する。多くの人が幻想にも似た書物の敷居の高さというものに、面喰らって地団駄を踏んでいるように、あるいはその末路としてか、各人が自ら閉鎖的な世界に踏み込んで行っているように見えるのは僕だけであろうか。自ら牢獄に入り、自ら鍵を閉め、その鍵を牢屋の外へ放り投げてしまうほどのストイックささえも見受けられる。
外的要因によってのみ救われる世界なのだろうか。さもなくば、外的要因でしか救われないとでも思っているのだろう。それを成し遂げてくれるのが宗教であると思うのだが、いまではそれさえも侮辱し、嫌う傾向にあるようだ。

悩み事を打ち明けられたとき、可能であればぼくの少ない読書経験を活かして、その悩み事に即した書物を紹介するようにいつしかなった。下手にアドバイスをして、自縄自縛を招いてしまっては困る。そういう経験を既に何度も否応なく強いられてきたので、もう御免である。
しかし、そうした場合に大抵の人は、自分は本を読む能力がないといった類のことを異口同音に言う。

果たしてそうであろうか?

活発的なエネルギーの胎動を感じずにはいられないほどに太陽が燦々と照りつける真夏日に、砂浜に出向き、キラキラと波打つ大きな海や、空を自由に羽ばたくカモメの群れを目の前に、ただ漫然と眺めているだけでも大概の人は感心することができる。そこにはもはや本当の意味で感心できているのかなどと、要らぬ心配を巡らす余地はない。現にあるのは感心している自分がいるという事実のみである。読書というものもそういうものであって良いのではないかと最近思う。
書物を勧める僕の方にも真の読書の能力はきっとない。真の、とか本物の、とかいった枕詞にはなんの意味も価値もないと思う。ただ漫然と読み進めていると、自然と感心することができていると言った具合である。そういうもので良いと思う。

すべてを完璧に読み取り記憶するなんてことは不可能であり、それはぼくたち一般人にとっては不健康な完璧主義に過ぎない。そんなものは文学者や書評者に任せればいい。景色に完璧な感動を求める者はそうそういない。それでは、地理学者や歴史家に成り下がってしまう。そんなことよりも、本を読んで得られた心の動きそのものがなによりも重要であり、だれかに規定されるものでも、評価されるものでもない。内的経験としてそれは確実に骨身に染み渡っていく。一番の自由がそこにはある。

果たしてそうであろうか?という疑問からぐだぐだとくだらないことを書いたが、本を読む能力がないという言動が、現代にすっかり根を下ろした消極的ニリヒズムに起因した言動であれば、このくだらなさはいまごろそれを助長させていることだろうと思う。それをどうこう言うつもりは毛頭ない。

話が少し脇に逸れたが、そういった心持ちで書物に触れることができれば悩み事の1つや2つはいとも簡単にすっかりと姿を消すかもしれない。

書物はそういった不思議な力を秘めている、とぼくは信じている。

ロマンティックラブ

恋に「落ちる」。

それを経験するかどうかは運の問題で、運がよければそこに「落ちてくる」。自分の交換価値の限界を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、そこに「落ちてくる」。ここでは不動産を購入するときと同じように将来発展しうる隠れた可能性が重要な役割を演じる。物質的成功がとりわけ価値を持つ現代社会においては、これをロマンティックラブと呼ぶのだろうと思う。尤もロマンティックな言い方ではないが、つまるところ、お買い得商品を探し当てることができたということだろうと思う。

悲しいラブストーリーを描いた映画を観、少女漫画を読みふけり、愛を歌った流行歌に聞き入っている。ロマンティックラブを夢見ながら、誰もが愛に飢えている。だれもが愛を求めている。それも受動的な愛を。誰もが愛されたいと思っている。その人たちにとって重要なことはどうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になるかということらしい。社会的価値を持つ良い「商品」になるにはどうすればいいのだろうといった具合に。

そして、誰彼も精いっぱい愛そうと努力することはあまりしない。少なくとも僕の目にはそう映る。そこで努力するものではないと思っているのだろうか。わからない。

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標準的な「商品」になれなくて、自分なんてだめだ、などと悲観する裏にはこういった情動もあるのかもしれないですね。いろいろな商品があったほうが僕は面白いと思いますが。

電車の中でこの記事に書いてあることを考えていたのですが、電車の中ではいろいろな発見があります。その中でも流行っていうものは想像以上にすごいものですね。みんな同じような服を着て同じような鞄を背負って同じようなゲームをして、同じような曲を聴いて。そして、みんなは平等っていうのは言葉の綾ですね。一体という意味での平等ではなくて同一という意味での平等で、どんどんどんどんみんなが標準化されて行って、異質なものは即刻排除という感じで怖いですね。

モテたいのであれば、まずは自分を抑えて害のない標準的な「商品」を目指しましょう!